協力隊の2年間を終えて日本に帰国し、自分の進路についていろいろ考え、行動しています。
どこで仕事しようかな、どんな仕事しようかな、と考えていました。
そして下した決断は進学
修士号を取得しようと決めました。
帰国後、ある程度の貯金はありますが、大学院に通うには足りません。
ですが、両親や叔父の協力があり、資金はなんとかなりました。
あとは自分の努力次第です。
日本の大学院と海外の大学院2つに絞って勉学に励みたいと思います。
あ、もちろん仕事しながらです。
では、なんで進学なのかという理由を書きます。
長くなりますが。。
関係しているのは写真の男性。
どこで仕事しようかな、どんな仕事しようかな、と考えていました。
そして下した決断は進学
修士号を取得しようと決めました。
帰国後、ある程度の貯金はありますが、大学院に通うには足りません。
ですが、両親や叔父の協力があり、資金はなんとかなりました。
あとは自分の努力次第です。
日本の大学院と海外の大学院2つに絞って勉学に励みたいと思います。
あ、もちろん仕事しながらです。
では、なんで進学なのかという理由を書きます。
長くなりますが。。
関係しているのは写真の男性。
当時マラウイに赴任してまだ3ヶ月経たない頃のことです。
病院の医師に「自宅療養している結核患者がいる。栄養状態をみてほしい。」
と言われてついて行きました。
医師が言っていた家に着き、中へ入ると僕の目にこの男性が映りました。
最初の数秒は自分の目に何が映っているかわからなかったです。
やせ細り、立つこともままならない人。
食は細く、嚥下状態も悪い。
テレビで何度か見た光景が、その時リアルになったのです。
どうやらこの男性、HIV陽性ですでに発症しており、結核を併発しているとのこと。
しかも患っている結核の型が特殊で感染力が強いため、病院に入院することができなかったのです。
医師は自宅療養という決断をし、週2回診察に行っていました。
だんだん容体が悪くなる患者を見て、僕に声をかけたようです。
しかし、僕は医者じゃない。
治療を施せるわけはなく、アセスメントをして食事摂取状況を把握し、必要栄養量を計算するくらいしかできません。
それらを出したところで食糧をあげることもできません。
本当にできないこと尽くしでした。
彼には妻と4人の子供がいます。
妻は旦那の看病で家にいて畑仕事もままなりません。
子供達は一番上の子が小学校へ通っています。
小学校の授業料は無料ですが、中学校からはお金がいります。
一家を支えるお父さんが病に伏している今、誰が家計を支えるのでしょう。
この時、僕はそんなことを思い、自分の無力さを痛感しました。
ただ衰弱していく患者を目の前にして僕は何ができるのか?
この家にある食材はメイズ(主食)の粉、少量の野菜、大豆、チャンビコ(村で作るヨーグルト)だけです。
患者は少量の食事はできるものの、うまく喉を通りません。
おそらく食道がかなり退化して細くなっているのでしょう。
HIVの薬すら飲むのに苦労しています。
僕が唯一できたことは、「一回の食事量を少なくして、回数を増やすこと」を妻にアドバイスしたくらいです。
あとはそばにいることしかできませんでした。
その後何度か訪問し、彼の容態を確認してはそばにいる日々。
最初の訪問から2週間が過ぎました。
いつものように担当医に「彼のところにいこう」と声をかけると。
「彼は昨夜亡くなったよ」
と医師は言いました。
僕はこの結末を、出会った日から知っていたように思います。
でも、現実になったとき信じられないという思いがありました。
結局、僕は口だけで何もしてあげられなかった。
そんな思いを抱えたまま、家族に会いに行きました。
申し訳なさと後悔といろんな感情があったと思います。
彼の妻と子供達に会い、「ごめんね、助けられなくて」と、言葉をこぼし、うつむいていると、彼の妻が言いました。
「ありがとう。いつもあなたは来てくれました。感謝しています。」
この言葉にどれだけ救われたか。
途上国で活動することは、大変だと思っていました。
でも3ヶ月弱でこんな体験をするとは。
本気で帰国したいと思いました。
でも彼の妻がくれた言葉、その意味を自分なりに解釈して、また頑張ろうと思えました。
僕ができたこと、それは時間の共有
彼と出会って、僕は何もしてあげられませんでした。
でも同じ時間を過ごすことはできました。
この時間は何にも代え難く、そして一期一会の体験。
彼やその家族が教えてくれました。
誰かに想われているという幸せを。
その後、何度かこの時のことが夢に出てきました。
その度に自分の活動を見直し、自分本位になっていないか、マラウイの人たちのためになっているかを自問自答していました。
今になっても夢にみます。
でも、今の僕では何ができるのだろう。
そう思うと、やはりもう少し高度な知識・技術が必要になりました。
はじめは日本で数年働いて、海外で今後増えていくだろう生活習慣病に携わっていこうと思ってましたが、考えが変わりました。
手洗いとか日々の食事、下痢の治療、HIVの予防そういった公衆衛生のプロになりたいと。
そのためには、語学力、海外での経験、修士課程が必要になってきます。
2つはなんとかなっていますが、最後の修士課程が足りません。
そのことを両親や叔父に話すと、叔父から一言「やってみればいい。自分が正しいと思う道へ進め。」
と言われ、大学院に合格した際は学費を出すと言ってくれました。
最初は甘えるのに抵抗があり、自分で働いてから進学しようと思いましたが、「その働いている期間があったら何人の人を救えるんだ?」
という言葉を聞いて、甘えることにしました。
これからは自分との戦いです。
こうして文章にして一般公開するのも自分に負けないため。
公言したからには後に引けない。
この状況は自分で作るしかないのです。
マラウイに赴任してすぐ起きた出来事が、こんなにも自分に影響していました。
2年間の協力隊生活で、自分がどういう結果を出せたかはわかりませんが、一つだけわかったことがあります。
それは、、
独りでは生きていけない
住んでいる家は大工さんが作ってくれる。
毎日の食べ物は農家さん、自然の恵みがくれる。
悲しみや寂しさは大切な人たちが癒してくれる。
もっともっとたくさんの人が自分の周りにいて、生活を支えてくれています。
日本にいると、自分で働き得た給料で物を買うことを普通にしていました。
自分で、自分の力で自立していると思っていました。
しかし、それには何かがすっぽりと抜けていました。
物事のプロセス
マラウイに来る といろん なことのプロセスが目に見えます。
日本では、そのプロセスを見ることが少ないと感じました。
見えないプロセスには感謝することも難しいです。
でも、そのプロセスを意識することはできます。
いつも自分が生きている、その周りのプロセスに感謝。
必ず、誰かの時間が僕の人生の一部となり、僕の時間が誰かの人生の一部になります。
独りで生きていける人はいないのです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
See you soon :)
病院の医師に「自宅療養している結核患者がいる。栄養状態をみてほしい。」
と言われてついて行きました。
医師が言っていた家に着き、中へ入ると僕の目にこの男性が映りました。
最初の数秒は自分の目に何が映っているかわからなかったです。
やせ細り、立つこともままならない人。
食は細く、嚥下状態も悪い。
テレビで何度か見た光景が、その時リアルになったのです。
どうやらこの男性、HIV陽性ですでに発症しており、結核を併発しているとのこと。
しかも患っている結核の型が特殊で感染力が強いため、病院に入院することができなかったのです。
医師は自宅療養という決断をし、週2回診察に行っていました。
だんだん容体が悪くなる患者を見て、僕に声をかけたようです。
しかし、僕は医者じゃない。
治療を施せるわけはなく、アセスメントをして食事摂取状況を把握し、必要栄養量を計算するくらいしかできません。
それらを出したところで食糧をあげることもできません。
本当にできないこと尽くしでした。
彼には妻と4人の子供がいます。
妻は旦那の看病で家にいて畑仕事もままなりません。
子供達は一番上の子が小学校へ通っています。
小学校の授業料は無料ですが、中学校からはお金がいります。
一家を支えるお父さんが病に伏している今、誰が家計を支えるのでしょう。
この時、僕はそんなことを思い、自分の無力さを痛感しました。
ただ衰弱していく患者を目の前にして僕は何ができるのか?
この家にある食材はメイズ(主食)の粉、少量の野菜、大豆、チャンビコ(村で作るヨーグルト)だけです。
患者は少量の食事はできるものの、うまく喉を通りません。
おそらく食道がかなり退化して細くなっているのでしょう。
HIVの薬すら飲むのに苦労しています。
僕が唯一できたことは、「一回の食事量を少なくして、回数を増やすこと」を妻にアドバイスしたくらいです。
あとはそばにいることしかできませんでした。
その後何度か訪問し、彼の容態を確認してはそばにいる日々。
最初の訪問から2週間が過ぎました。
いつものように担当医に「彼のところにいこう」と声をかけると。
「彼は昨夜亡くなったよ」
と医師は言いました。
僕はこの結末を、出会った日から知っていたように思います。
でも、現実になったとき信じられないという思いがありました。
結局、僕は口だけで何もしてあげられなかった。
そんな思いを抱えたまま、家族に会いに行きました。
申し訳なさと後悔といろんな感情があったと思います。
彼の妻と子供達に会い、「ごめんね、助けられなくて」と、言葉をこぼし、うつむいていると、彼の妻が言いました。
「ありがとう。いつもあなたは来てくれました。感謝しています。」
この言葉にどれだけ救われたか。
途上国で活動することは、大変だと思っていました。
でも3ヶ月弱でこんな体験をするとは。
本気で帰国したいと思いました。
でも彼の妻がくれた言葉、その意味を自分なりに解釈して、また頑張ろうと思えました。
僕ができたこと、それは時間の共有
彼と出会って、僕は何もしてあげられませんでした。
でも同じ時間を過ごすことはできました。
この時間は何にも代え難く、そして一期一会の体験。
彼やその家族が教えてくれました。
誰かに想われているという幸せを。
その後、何度かこの時のことが夢に出てきました。
その度に自分の活動を見直し、自分本位になっていないか、マラウイの人たちのためになっているかを自問自答していました。
今になっても夢にみます。
でも、今の僕では何ができるのだろう。
そう思うと、やはりもう少し高度な知識・技術が必要になりました。
はじめは日本で数年働いて、海外で今後増えていくだろう生活習慣病に携わっていこうと思ってましたが、考えが変わりました。
手洗いとか日々の食事、下痢の治療、HIVの予防そういった公衆衛生のプロになりたいと。
そのためには、語学力、海外での経験、修士課程が必要になってきます。
2つはなんとかなっていますが、最後の修士課程が足りません。
そのことを両親や叔父に話すと、叔父から一言「やってみればいい。自分が正しいと思う道へ進め。」
と言われ、大学院に合格した際は学費を出すと言ってくれました。
最初は甘えるのに抵抗があり、自分で働いてから進学しようと思いましたが、「その働いている期間があったら何人の人を救えるんだ?」
という言葉を聞いて、甘えることにしました。
これからは自分との戦いです。
こうして文章にして一般公開するのも自分に負けないため。
公言したからには後に引けない。
この状況は自分で作るしかないのです。
マラウイに赴任してすぐ起きた出来事が、こんなにも自分に影響していました。
2年間の協力隊生活で、自分がどういう結果を出せたかはわかりませんが、一つだけわかったことがあります。
それは、、
独りでは生きていけない
住んでいる家は大工さんが作ってくれる。
毎日の食べ物は農家さん、自然の恵みがくれる。
悲しみや寂しさは大切な人たちが癒してくれる。
もっともっとたくさんの人が自分の周りにいて、生活を支えてくれています。
日本にいると、自分で働き得た給料で物を買うことを普通にしていました。
自分で、自分の力で自立していると思っていました。
しかし、それには何かがすっぽりと抜けていました。
物事のプロセス
マラウイに来る といろん なことのプロセスが目に見えます。
日本では、そのプロセスを見ることが少ないと感じました。
見えないプロセスには感謝することも難しいです。
でも、そのプロセスを意識することはできます。
いつも自分が生きている、その周りのプロセスに感謝。
必ず、誰かの時間が僕の人生の一部となり、僕の時間が誰かの人生の一部になります。
独りで生きていける人はいないのです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
See you soon :)